絵本「こんとあき」の考察~こんとあき が泣ける理由
子供が小さい頃、寝る前によく読んであげた絵本 林明子作「こんとあき」。
何か他の絵本とは違う「重さ」というか、適切な言葉ではないかも知れませんが「怖さ」がありました。
そこで、この「こんとあき」という絵本について考察してみたいと思います。
先ず結論から言うと、この物語は、娘である”あき”が父親=”こん”から自立し死別するまでの物語だと私は考えています。そう考えると辻褄が合うことが多いのです。
冒頭の
「こんは赤ちゃんを待っていました」
この描写は目を覚ますと赤ちゃんが突然眼の前に現れるという、男性が「突然父親になる」という感覚に似ています。
母親は10ヶ月子供をお腹で育てて、苦しんで子供を授かるわけですから突然眼の前に赤ちゃんが現れるという感覚はないでしょうが、突然眼の前に子供が現れるの父親だけの感覚です。
あきがすくすくと成長する間もずっとこんはそばにいます。
「あきはだんだん大きくなりました。ところがこんはだんだん古くなりました。」
これはあきの成長につれて、父親は逆に老化して行くという意味だと解釈できます。
「ある日こんの腕がほころびてしまいました。」
病気したということです。
その後、電車に乗っておばあちゃんのところへ向かうのですが、あきにとって電車はきっと「社会・成長」を意味し、こんにとっては「老化=死へ近づいている」というのを意味しているのではないでしょうか?
次の駅でこんはあきを席に残して一人でお弁当を買いに行きます。あきにすこしずつ自立を促している描写ととれます。
このあと、こんは尻尾を電車の扉に挟まれてしまいます。これは父親のさらなる老化を意味しています。身体はボロボロです。
そして、あきの
「ちょっとだけ砂丘に行ってみてもいい?」
というセリフは娘の自立を意味しています。自ら行ってみたいという意思表示をしています。
砂丘に付くとこんどはこんが犬に連れ去られ、埋められてしまいます。
犬=”病気”のメタファ、砂に埋まる=”死”のメタファです。
父親は更に重い病気にかかり、なくなってしまいます。
このあと、こんの取れかけた尻尾などをおばあちゃんに直してもらうわけですが、
冒頭の
「こんはおばあちゃんに頼まれて砂丘町からきたのです」
という箇所から、こんはおばあちゃんが作ったと考えていいと思います。おばあちゃんが作るのは父親か母親です。
そして、おばあちゃんはこの時点ですでに天国にいるのではないでしょうか?
「あきがこんをおばあちゃんの家に連れて行く」=「父親を弔い、おばあちゃんのいる天国へ見送った」ということです。
お風呂に入った後こんの身体はキレイに元通りになります。天国へ行って幸せになったということでしょう。
いかがでしょうか?ちょっと不謹慎な考察かも知れませんが、「こん=父親」というのは間違いないんじゃないかと思います。
そして、もっと不謹慎ですが、生まれてから砂丘町に着くまで、こんとあきの二人しか登場しません。成長過程に母親が登場しません。
おそらく母親は出産時に亡くなっているのかもしれません。
以上が私の勝手な考察です。
この絵本には不思議な魅力があります。
それは、絵本の中に何か深いメッセージが込められているからでしょう。